元兵「おらってつはうっ」ガシャーン 鎌倉武士「なんやこれ!?…ってワイに当たってへんやん…」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg
↓
鎌倉武士「弓矢シュババババ」 元兵「逃げるんだよォ!」元兵「こいつらてつはうにビビらずに突撃してくるンゴォ!?」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f6/Mitsui_Sukenaga.jpg
モンゴル軍が用いた「てつはう」に殺傷能力はあったのか
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6716
肩壊しそう
武士に背を向けて逃げたり矢が刺さってる元の兵士がいるのな
と思いきや海から発掘されたてつはうを調べた結果やっぱり破片で攻撃するタイプの兵器やったんやってな
でもそれも敵の近くに着弾すれば、の話やな
絵だと破片が飛んでても竹崎には当たりそうもない
てつはうの被害にあった武士もいたと思うが
それやと論功行賞の際に不利なので元軍兵士と組み合って死傷したことにしたみたいな例はありそうやね
戦国時代でも味方の馬に踏まれて死んだけど勇敢に戦って死んだ事にする的な処置は結構あったし
やっぱ陶器?
容れ物は陶器
中には鉄片や青銅片
はえーサンガツ
竹崎季長「もっとイケメンに描かかせればよかったわ…」
元寇のお兄ちゃんが教えてくれたんか?
わからんけど鉄片が入っとるから鉄、
火薬を使うから砲やないか?
「砲術」も鉄砲だけやのうて石火矢も狼煙も含めた火薬使用技術全般を指す言葉やし
馬が出血してるのはてつはうにやられたと思っとったけど
拡大すると傷口は二か所とも矢が突き刺さっとるんやな
かっこええ方ではないやろ投げてくんの雑兵やろうし
武士「ファ!?馬がビビって使い物にならへん!!」
武士「……よく考えたら馬邪魔やわ(グサー)」
武士「とりあえず馬の死体は元カスの船へポイーで」
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>>21
騎馬隊が集団突撃してくるところにポイー
↓
お馬さんパニックで騎馬隊将棋倒し
こんなんちゃうんか
その次の場面では百余騎の騎馬兵が集団突撃やで
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/Takezaki_suenaga_ekotoba_1-2.jpg
敵を充分引き付けてから撃つのは戦いの基本なのに…これだから蒙古共は…
『せならわいらも…ウフフッ!』
って感じでウッキウキで持ち込んだんちゃうんか。
手投げ弾とか遊牧民もともとの発想とちゃうやろ
当時やと軍事機密やろうし日本に教えへんやろ
百年以上あとやと北条氏康(1515年生)がガキの頃に、貿易で相模湾に来とった唐船が
小田原城内で飛砲って火器の試し打ちを披露したのにビビってマジ泣きしたいう記録がある
集団戦の元軍とやあやあやあ我こそはの日本軍
日本ボコボコにされそうだけどよく勝てたなって
武士「なんやあいつら戦いの礼儀知らんのか」
武士「ほな夜討して死体を船に投げ込むンゴ~」
>>30
そもそもこの絵ですら鎌倉武士はタイマンやのうで集団戦してるで
竹崎季長(一枚目の武士)はタイマンするために飛び出したんやのうて
先駆けの功績を求めて飛び出したんや
それも従者もついて行っとる
んで負傷した竹崎助けに二枚目の武士や百余騎の武士が続々追いついて集団で弓を射かけとる
>>30
それと名乗りは今では敵への自己紹介やのうて
味方に「これからワイが手柄立てたるから覚えとってな!」ってアピールやないかともいわれとる
仮にそうやなくても、外国人相手にはせえへんやろ日本語通じへんで
ご恩と奉公の関係上目立たなアカンから味方(上司)へのアピールやね。
死にやすいけど一番乗りは誉でもあるし手柄でもある
ましてや長い船旅で海上にいる間に火薬の性能はかなり落ちたと思われる
不発が多かったと思われる
また運よく破片が飛んでも甲冑武士に手傷を負わすほどの威力があったとは思えない
襲ってきたのは14万の内戦法の4万だし
鎌倉武士の強さは認めるけど結局台風のおかげなんやろなぁ ロマンの欠片もなくてすまんが
高麗兵は総勢4万の文永の役でも半分以下、さらにその半分は船員や
14万やったのは弘安の役で、うち10万は南宋人やからこっちでも高麗兵は半分以下
南宋人は後続やったから遅れたけどそれでも日本軍と戦っとる
開放された宋人は元では立場なかったやろうな
『せやから無理やっていうたやないですか…今度からはワイらの言うこと聞いてもらいますでこの遊牧野郎が』
てマウント取れたんちゃうん?
>>88
趙良弼「せやから無理やっていうたやないですか…」
1 :名無しさん@おーぷん:18/10/06(土)22:05:20 ID:Y4y主 ×
一年ほど日本に居た第五回&第六回使節の趙良弼さんの報告より
・獰猛で殺を嗜む
・親孝行を知らない
・上下の礼も知らない
・土地は山水が多くて耕作に利がない
・日本人を得ても役に立たない
・日本の土地を得ても富まない
・舟で海を渡るのも風は不定期で、損害を測ることもできない。
・日本征服なんて有用な民力で底なしの巨大の谷を埋めるようなもの
・結論、(元寇)反対
ここまで言われてなんで攻めてきたんや…
北センチネル民扱いやな
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むしろなんで時宗は殺したんや
>>93
使節殺したのは文永の役の後や
第七回と第八回使節
文永の役の後にも使節は来とるけど殺してはないで
返事せずに既読スルーはしとったけど
>>93
>>100違った、
文永の役の前にも使節は来とるけど殺してはないで
1 :名無しさん@おーぷん:18/10/20(土)21:15:37 ID:RBJ主 ×
【悲報】元寇の頃に日本に送られた蒙古の使者の末路……
1回目 高麗で引き返した(生還)
2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった(生還)
3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った(生還)
4回目 島民帰した(生還)
5回目 日本からの使者?連れて帰った(生還)
6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1の報告した(生還)
(文永の役)
7回目 処刑…(死亡)
8回目 また処刑…(死亡)
(弘安の役)
9回目 台風で引き返した(生還)
10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…(死亡)
11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた(生還)
12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没(生存、日本に留めて帰さず)
13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった(生存、日本に留めて帰さず)
13回中、生還8回(本土に来れたのは4回)、死亡3回。
時期で分けると
文永の役前→生還、
文永の役後→処刑
弘安の役後→生かすが帰さず日本に留める
7回目と8回目だけ処刑されとるンゴ……
これもう7回目以降はほとんど生贄やろ
どんな気分で日本海渡ったんやろ
9回目台風で引き返したことになってるけど
「7回目も8回目も殺されとるのに絶対ワイも殺されるンゴオォ!?」
って台風言い訳に逃げ帰ったんやないやろか
>>109
まあ人質作戦しても
→人質の盾ごと矢を射かけてくるンゴ...。
腕に自信があるのかな?じゃあ船にくくりつけるわ、これなら
→嬉々として放火
こんな蛮族と交渉なんか無理よ
常に馬の餌の為に庭草は伸ばしたままにしておけ
調練場には生首を絶やすな
人殺しは常にやって武芸を磨け
門前を通る僧や乞食、修験者は弓の的に丁度良い。逃げるから弓の標的として活用せよ。
僧は殺せだったのに禅にはまるんやからわからんもんやな
ぶっちゃけ元側の史料を信じるならあんまし効いてないっぽいけど
鎌倉打線
1(中) 壱岐対馬を見殺しにして相手の戦法を見極める
2(二) 元軍出兵5か月前には鎌倉武士団を大宰府に展開して迎撃態勢
3(一) 人質を楯にしても関係なく矢を射かける
4(三) 博多が略奪される前に鎌倉武士団で略奪の限りを尽くす。
5(遊) 元軍の人質を盾に使う
6(右) 夜襲を繰り返し船に毎回放火する。
7(左) てつはうに馬が驚くも徒歩で戦ってた
8(捕) 元軍の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れる
9(投) 捕虜は宋人は以外皆殺し
最悪棄民できるの精神やないか
引用元: http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1571049735/