
結果は不評が多いわけだが、その理由はいくつかある。まず、本作は原作をかなり端折った展開であるということ。そしてシリーズ作品の音楽の使い方が下品に感じること。あるいは、わかりやすいコメディシーンが多くなっているのも気になるだろう。だが、これらは細かい要素に過ぎない。
重要なのはやはり、ラストの展開だ。終盤、ついに主人公はミルドラースという大魔王に立ち向かうことになるが、そこでいきなり急展開。 実は、自分たちのいる場所がVRで作られた偽りの世界であることがわかる。しかもラスボスはミルドラースではなく、VR世界に現れたウイルスだったのだ。
やつはこう語る。ウイルスの制作者はゲームなど「虚無だ」と考えており、だからこそこういうVR世界を破壊するのだと。ビアンカやゲレゲレや息子たちはただのデータとなり、消え去ってゆく。しかし主人公は“ゲームは素晴らしいもうひとつの現実だ”と語り、最後の戦いに勝利するのだ。
https://jp.ign.com/dragon-quest-your-story/37548/opinion/
さて、なぜこのようなラストシーンが観客の怒りを買うのだろうか。第一に、本作はドラクエ5の映画化ではなかったからである。ドラクエ5の映画化作品であれば改変はあれど原作に忠実であったほうが無難だ。 しかし『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はそうではなく、“かつてドラクエ5を遊んでいた人を主人公とした映像作品”であるため、ラストに大胆な展開を入れた。
そもそも、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はなぜ最後にそんな無茶苦茶なメタフィクション構造を持ち出したのだろうか? その理由はとてもシンプルで、ゲームを遊ぶゲーマーを肯定したかったのだ。 そして、これこそ『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が嫌われる第二の理由だ。
確かに、「ゲームは時間の無駄」だとか「遊んだところで何も残らない」と言われることがある。
しかし、仮にそうだとしてもドラクエ5をはじめとするゲームで冒険した時間は大事なものである……というのが制作陣の語るメッセージだ。 いわばラスボスのウイルスは「ゲームを否定する世間」で、主人公は「ゲーマーたち」。それを戦わせて、ゲーマーを勝たせる。構造的にはゲーマーを褒め称える作品になっている。
だが、それこそゲーマーにとって禁忌であった。なぜなら、ゲーマーは別に制作陣からの称賛や愛を求めていなかった。 それどころか、むしろこういう愛は唾棄すべきものだと考える人も多いからだ。
そもそもたいていのゲーマーは、ゲームがほとんど時間を潰すものでしかないことはわかっている。だが、楽しいから遊ぶのだ。
そんなことはきちんと理解しており、「ゲームが無駄かどうか」なんて議論自体もすでに過去のものとなっている。
世間的にもゲームは受け入れられており、子供のおもちゃだったのは今や昔の話だ。 たとえばファミリーコンピュータが発売されたのは1983年。つまり40代くらいならば一度はゲームの熱気に当てられ、それが立派な思い出になっているわけだ。
あるいは『Pokémon GO』は中高年にウケている。電車やバスに乗ればお年を召した方がスマホでゲームを遊んでいたって別にそこまでおかしくないだろう。 もしくはゲームはeスポーツとなりそれでプロとして活躍する人もいるし、有名タイトルは20周年だの30周年だのを迎えているわけだ。
もはや「ゲームは無駄」だの「ゲーム体験は虚無」だのと言う人は減り続けており、全世代がゲームを楽しんだことのある人になるのも時間の問題、という状況なのである。
ゲーミフィケーション、ボケ防止、シリアスゲーム……。社会で役に立っているゲームの要素も、例を挙げればたくさん出てくるだろう。
しかし、制作陣のゲーム観はファミリーコンピュータやスーパーファミコンくらい、つまり昭和か平成初期の価値観で止まっていると思われる。そして元号が令和に変わってようやく制作陣も「あれ? もしかしてゲーマーってそんなに悪くないんじゃね?」と気づき、この映画を作ったのではないか。
そしてゲーマーに向けて『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』というラブレターをしたためた。
だがそれはゲーマーにとって、熟成させたゴミをプレゼントされるようなものだった。そのゴミは、30年くらい前であれば適切だったかもしれない愛なのだが。
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はドラクエ5の映画化の機会を損失させ、時代遅れの語る価値もないテーマをぶつけ、一方的な愛を投げつける。
たとえるならば自信を失っていない人たちに「君たちは自分を肯定していいんだよ!」と言うような、失礼ともいえる行為である。 しかも、これは悪意ではないところが最悪だ。受け入れられないストレートな愛ほど厄介なものはない。
かつてスーパーファミコンでドラクエ5を楽しんでおり、いまもゲーマーと自称しても間違いないであろう私は、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を見て興奮し、腕が震えた。 なぜかって? 制作陣がゲームに対し無理解であるということを作品に込め、あまつさえそれを日本中の劇場で公開するというおぞましいことをしでかしたのだから!
こんな愚かな行為、そう滅多に見れるようなものではない。
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』がゲーマーを怒らせる作品であることも間違いない。 そもそも「ゲームキャラは作り物に過ぎない」というメタ構造はゲームでも手垢のついた手法で、よほどうまくやらなければ汚点となる。
それをなんら工夫なくストレートにやってしまうとは、ゲーマーに対する多少の理解はあってもゲームに対する理解はなく、無意識のうちに見下していることが透けて見えるのだ。
本作の制作陣からゲーマーに送られたラブコールはとても愛情深く、同時に極めて不愉快で愚かに感じられる。
もはやこの作品そのものが「制作陣とゲーマーのすれ違いラブストーリー」なのである。
これほんま鋭いなオブラートに包んでるけど
悪意はないよって取り繕いながら製作陣が本質的には舐めてるところまで喝破してる
そもそもゲーマーからしてみると実はゲームだったよ展開ってクソゲーの系譜そのものやもんね
>たとえるならば自信を失っていない人たちに「君たちは自分を肯定していいんだよ!」と言うような、失礼ともいえる行為である。
>しかも、これは悪意ではないところが最悪だ。受け入れられないストレートな愛ほど厄介なものはない。
これは本当にそう
オチを思い付いたから映画化進行させたとかほんましょーもない
鳥山明のデザイン変えたのも「海外には受けないから」とかいう的外れな考えから
草
ミルドたけし
ゲームをテーマにした映像作品見てれば色んな奴が使ってる手法なのにホンマアホ
スタッフの数年の努力をゴミにしたんだよなあ
周りに止める奴おらんかったのか?
もうイエスマンしかおらんやろオリンピックの演出担当にして日本を代表する映画監督様やぞ
お前が思いつく事なんて先人がやってない訳ないやろ
実はゲームの世界でしたなんてオチはそれこそスクエニのSO3でやってるのに
>>39
「ゲームの映画化に懐疑的」
最悪の人選で草枯れた
それをわざわざドラクエでやる必要はなかった
そこそこ見られるのは事実や
ラストが超絶うんこで全部台無しや
頭スターオーシャン3
ゲマ倒した瞬間に急いで映画館から出れば名作
それだけでドラクエ脳のおっさん共は称賛してくれたのにな
スポンサーリンク
ドラクエファンは当然ラストに怒るしドラクエ知らん奴はそもそもダイジェストの展開について行けへんやろ
作ってる方は本気でこれが素晴らしいと思って作り出したと思うんよなマジで
監督「鳥山明のデザインは海外に受けない!俺の映画は海外意識してるから鳥山明は切る!」
監督「ドラゴンクエスト5はやったことない!そもそもRPG全然やらない!ゲーム詳しくない!」
監督「素晴らしいオチを思い付いたわ…」ニチャア
3アウトやろ
「今まで断ってたけど、このオチを思い付いたから監督引き受けた」
という発言
鍵垢になってて草
スタッフ自身がこどおじという悲し過ぎる作品やね…
映画でやったのはまさにこれだったな
やたら海外意識して国内でも海外でもこけるって一昔前のスクエニに対する皮肉にもなってるな
鳥山明は海外では受けない!→スライムや勇者は明らかに鳥山明デザイン
大丈夫かこいつら
ドラクエVの映画化と見せかけてそうじゃなかったとこやと思うけどな
実はここはプログラムの世界ってのを序盤に発覚させたうえで
プログラム世界で命をかける勇気とか現実に戻れたけどそれでもプログラム世界を助けるのかという葛藤とか描いたのに
2019年の映画が実はゲーム世界でした!落ちだけとか嘘やろと
>>294
アグモン達とかまさに感情を持ったプログラムだからええけど
ユアストーリーのNPCどもはマジでただの無機質なプログラムやからな
ヒロインのビアンカとか「リュカは昔からそうだったわね!」とか言ってるんやが
ゲーム設定で子供時代はスキップしてるからマジでプログラムされたセリフ喋ってるだけの薄っぺらな二次元やで
そんなもんがヒロインとか前代未聞やろ
この映画の場合ドラクエ5をCG映画化!!って大々的に宣伝してたから
尚更思ってたのと違う感が出てる
この映画でもう1つは笑えるんは
公開前なのになぜかレビューが☆5多くて
試写会組が評価してるのかと思えば試写会組からも酷評
公開してすぐに☆1に抜かされたこと
誰がレビューしてたんやろなぁ…
今後永遠にそういう作品だったと言い続けられるやろね
腐ってもいないのにゴミってわかるゴミだぞ
引用元: http://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1565224279/